目黒区の原始時代から今日までのあらまし
目黒区教育委員会発行 めぐろの文化財より
目黒区の歴史

原始時代
 


目黒には、約1万6,7千年前の先土器時代からすでに人類が住んでいたと考えられる。

約12000〜2000年前の縄文時代の遺跡は、目黒川とその支流、呑川とその支流に面した湧水点に恵まれた丘陵縁辺を主にして、東山・諏訪山・油面・目黒不動・富士見台・柿の木坂遺跡など40数ヶ所にのぼる

山の手台地上で縄文文化の一つの中心であったとも思われる。
その分布密度が東京区部でも多い方だといわれるのは、目黒の自然的条件が、当時の人たちの生活に適していた為であろう。

しかし、水田稲作が中心の弥生時代になると、目黒川沿いの低地でわずかに水田が営まれただけで、台地の上は一面に武蔵野の原野が広がっていたようである。

 
古 代
 

5世紀頃に大和朝廷の東国支配が始まり、大化の改新から奈良時代にかけて武蔵の国となり、目黒は武蔵の国21郡のうちの荏原郡に属した。

この頃、宮牧、私牧が各地で行われていたが、目黒附近でも馬牧が盛んに行われ良馬を産しており、駒場、駒沢、馬引沢などの馬にちなんだ地名ものこっている。

目黒の「め」は馬を、「くろ」は畔をあらわし、馬牧の周囲のあぜ道のことで馬の牧からおこった地名であるともいわれている。

平安時代には各地に荘園がおこって、武蔵七党などの武士が活躍するようになり、目黒付近は「菅刈荘」とよばれていた。また、大鳥神社、目黒不動(瀧泉寺)、法眼寺(円融寺)は、9世紀頃の創建と伝えられている。
平安時代の目黒地域の開発や文化の発達はこれらの社寺を中心に行われたのであろう 。


 
中 世
 

鎌倉幕府が成立すると、東国の武士達はその支配化に入ったが、目黒地域には目黒弥五郎という武士がおり、源頼朝に仕えたことが記録に残っている。

またこの頃、鎌倉へ通じる道として、荘園から荘園へ、八幡宮から八幡宮へと結んだらしい道が、「鎌倉道」「鎌倉街道」とよばれた。
目黒区内を通っていた鎌倉道は、「中つ道」といい、「下つ道」「上つ道」とともに幹線道路であった。

源氏の勢力はやがて北條氏に移り、さらに足利氏が登場し室町幕府が成立した。
室町時代の目黒の領主には大田源七郎・島津孫四郎などの名が見え

14世紀には関東管領の上杉氏、さらに小田原北條氏の勢力化にあった吉良氏が碑衾地域を領し、東光寺、法華寺(円融寺)などを特に保護し、原野の開発を進め集落が発達した。

 
近 世
 

天正18年(1590)徳川家康が江戸に入府の後、目黒地域は荏原郡に属し、三田、上目黒、中目黒、下目黒、碑文谷、衾の六か村に分かれており、幕府直轄地や芝の増上寺、東光寺、円融寺の寺領、旗本神谷氏領などが複雑に入り組んでいた。

目黒の地域は将軍の鷹狩の場となり、落語の「目黒のさんま」の話も生まれている。
目黒不動は将軍や江戸庶民の信仰を集め、門前町が賑わった。

江戸の発展に伴って近郊目黒の地域は、激増した武家や商工人の消費生活をまかなう野菜の供給地として江戸の町と密接なつながりを持ちつつ発展していった。

幕末の頃には駒場野の鷹狩場はしばしば幕府の軍事調練や砲術訓練の場となっていた。

 
明治時代
 

慶応3年(1867)徳川慶喜の大政奉還により目黒を含む地域は武蔵県となって近代日本の幕が開かれ、明治2年品川県に、明治4年東京府の管轄となり、明治11年には荏原郡に属することになった。

明治7年に八雲小学校、続いて菅刈・下目黒・碑小学校が設置された。

明治22年に六か村が目黒村、碑衾村の二村に統合された。
明治26年人口は目黒村3701人、碑衾村3245人で農家が大部分であったが、
明治29年 ビール工場が、40年に競馬場が 開設され、都市化への発展のいとぐちが開かれた。
 
大正から昭和へ
 

関東大震災、目蒲線(大正12年)、東横線(昭和2年)の開通で、これを契機として農地は宅地に変わり住宅地や商工業地域として急激に発展した。
昭和7年に合併して東京市目黒区となり、昭和18年東京都目黒区となった

昭和17年人口は21万3863人
昭和20年、戦災により区内の4割 26,000戸が焼失し人口は三分の一に減少
昭和39年東京オリンピック開催の頃 約30万人とピークに達した
昭和50年頃から 地価高騰の影響で激減し
平成5年 23万8581人
現在平成12年 24万1312人

現在では、区内に12の外国大使館が置かれ国際交流も盛んに行われる
近代住宅都市となりました。

特に最近では、渋谷区のビットバレー(情報技術産業の集積基地)の影響もあり、
インターネット・コンピュータ産業(情報サービス業)の起業が目立っています。


めぐろの文化財・みどりの散歩道 他 目黒区教育委員会 ・郷土資料室の文献を元に作成