鉄  飛  坂




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鉄飛板は平町二丁目と大岡山二丁目の境、呑川遊歩道の中里橋から東へ上る急坂で、坂上の北側に帝釈天を祭る小堂がある

明治二十五年編さんの「衾村々誌」品川道の条に、「鉄飛板あり、運輸便ならず、其坂下に呑川あり、之に架するを茶屋橋という」とある。
この橋名は、いつのまにか中里橋と変わった。

鉄飛〃という一寸変わった呼び名から、何かいわれかありそうに思われるが、案の定、いろいろの説がある

 そのーは、徳川幕府の初期時代、佐渡金山奉行であった大久保石見守長安が、ポルトガル人「ヒモンヤス」「テッピョウス」の二人に、鉱山採掘の方法を聴問し、佐渡金山の大改善を行おうとしたことかあった。
このことは「慶長切支丹怪秘記」という書物にでているそうだが、確説であるかどうか疑わしいようだ。
またこの二人の名が今の碑文谷・鉄飛の起源であるとも記されているようだが.
碑文谷・鉄飛という地名は、はるか以前からあり、これも当てにできない

その二は、奥州征伐「後三年の役」に従軍した碑文谷の豪族、碑文谷太郎道政が捕虜「鉄の.飛」を連れ帰って、この辺に住まわせたということによるもの。

 その三は、鎌倉時代、武蔵国の荏原二帝を領していたのが荏原太郎義利という領主であり、その家臣に鉄飛十郎兵衛という人がいて、今の鉄飛板の上あたりに館を構えていた名主であったということである。
鉄飛の館があったから、里人がその名を坂名にしたという。

 その四は、元蓬襲来のときの金沢殿着到帖に鉄飛五郎の名がみえることによる

 なお、「全回方言辞典」によれば “テッピ” とは “山頂 ” “てっぺん”などの訛りであるとし、「綜合日本民俗語弄」には、比較的高所にある屋敷をテッピ=@と呼ぶ例があったと記してある。





寺  郷  の  坂




寺郷の坂 (
衾の茶屋坂)

 茶屋坂と言えば、民話「目黒のきんま」に登場する
爺が茶屋(一軒茶屋)にまつわる 三田二丁目の茶屋坂が有名だが、
実は区内には、もう一つ茶屋坂がありました。

平町二丁目と大岡山一丁目の間を西へ下る 鉄飛坂に続く道で、
中根小学校前を旧名主岡田邸のほうへ上る緩い坂がそれである。

江戸時代の初め、天和のころ、
衾村の寺郷(茶屋坂上り口の右手一帯の地名)に、
奥沢の浄真寺(九品仏)参りの人びとを当て込んだ四軒の水茶屋があった。

当時の浄真寺は「江戸名所図会」によると、
浅草寺に次ぐほど 毎日大勢の参拝客がつめかける寺であった。
江戸だけでなく、相模方面からの参けい遊山の人びとの多くが、
この衾の茶屋の前を通って、九品仏へ向かったという。

茶屋が一休みするのに格好な場所にあったことは、
岡田邸裏手の中根公園の森がしのばせてくれる。


旧名主岡田邸の長屋門
寺郷の坂途中に現存
当時を偲ばせる
現在の中根公園


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鶯  坂 (うぐいすさか)

大岡山2-4-2と1-21-4の間を呑川の方へ下る坂

両側に杉小立と竹林があり、ウグイスが良く鳴いていたので、
鶯坂と呼んだのであろう と言われている


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