松林山 大円寺

天台宗延暦派で、「松林山大円寺」という 江戸の初期、寛永年間(1624〜1643)に湯殿山の修験僧 大海法印が、寺の前の坂(行人坂)を切り開き、大日如来を祀って祈願の道場を開いたのが始まりと伝えられている

山門を入るとまず目に付くのが、境内左手の崖に沿いに幾段にも並ぶ
釈迦像三体、五百羅漢像などから成る五百二十体の石仏像である

大円寺は行人坂火事の火元といわれ、以後76年間も再建を許されなかった

行人坂の火事

振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火の一つである

明和9年(1772年)の行人坂火事は大円寺が火元といわれている
同寺から出た火は、折からの強風により、たちまち白金から神田、湯島、下谷、浅草まで江戸八百八町のうち六百二十八町を焼き尽くす大火となった
特に城中のやぐらまでも延焼した

これが原因で大円寺は76年間も再建が許されなかった


五百羅漢像

大円寺の五百羅漢像は、行人坂の大火の犠牲者供養のために、石工が五十年という歳月をかけて完成したとされている
一体一体を良く見ると穏やかに微笑むもの、泣き出しそうなもの、その表情は実に様々で、個性あふれる石仏群を見ていると親しみが湧いてくる。


西運上人

「八百屋お七」の悲話の相手吉三はその後出家して西運を名乗り、大円寺の下(今の雅叙園の一部)にあった明王院に身をよせた

お七の三回忌に当たる貞享二年(1685年)の春、西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提を弔うために、目黒不動と浅草観音に一万日日参の悲願をたてた
往復十里の道を、雨の日も風の日も、首から下げた鉦をたたき、念仏を唱えながら日参しました
かくして二十七年後に明王院境内に念仏堂が建立された
また、行人坂に敷石の道を作り、目黒川に雁歯橋(太鼓橋)を架けた

明王院は明治13年ごろ廃寺になったので、西運の位牌、墓、お七地蔵、念仏鉦などは、隣の大円寺に移され今も大切に保存されている


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