経王山 円融寺

仁寿3年(853)慈覚大師の開基した天台宗の寺で、「妙光山法服寺」と言われ
430年間平穏に過ぎた。
弘安6年(1283)日源上人により、日蓮宗に改宗され「法華寺」と称し、世田谷城主吉良氏や徳川氏の保護を受け、最盛期には寺領19石、境内3万坪、坊舎18、末寺75を有する大寺院として約400年間大いに栄えた。

室町時代に威勢を示していた日蓮宗は、江戸時代に入ると各派が分立して、紛争がおき、不受布施の教義を強く主張した法華寺は、幕府の弾圧を受け、元禄11年(1698)に天台宗にもどされ、現代の「経王山円融寺」と改め比叡山延暦寺末となった。

不受布施

不受不施(ふじゅふせ)とは日蓮宗の一派で、他宗やその信者から何物も受けず、また施さずただ自己と信仰を同じくする人とのみ生きていこうという日蓮宗本来の教義である。
この教義は京都妙覚寺日奥上人によって開かれたものであるが、その頃の秀吉らの為政者ににらまれ、徳川時代にはいよいよひどく弾圧された

不受布施として強い信念を持つ碑文谷法華寺一派は、切支丹同様に思われ、「切支丹不受布施もと一つ」とよばれていた。

碑文谷法華寺は11世日進が、池上日樹上人とともに、日奥上人に共鳴し
不受布施派となったのに源を発し、以来各代の上人も極めて熱心な統者であったため幕府の忌諱にふれ、元禄11年 寺は取り潰され天台宗に戻された。

 

釈迦堂

正面三間、横四間、唐様、単層、入母屋造りで、室町時代初期につくられたといわれ、都区内最古の建造物として昭和25年に、国の重要文化財に指定された。
この堂の建築は、正面三間とも蔀度をはめ、左右両側は最初の一間に引き戸を建て、その他は羽目板となし、後面も板壁となっていた。
また内部は総床拭板で中央に長方形の内陣を設け天井を鏡板張となし、彫刻は入母屋破風内の懸魚にやや優美なる手法を見るのみで虹梁木鼻などの絵様彫刻は極めて簡素であった。

修理後は、茅葺が銅板葺に変わり、四隅の支え柱と向排が除かれ、正面の蔀戸も腰唐戸にかわった。
正面に石段が設けられ、周囲の柵も美観を損しない程度で低い大谷石のものが施された。
このように修理が加えられたが、室町時代初期、京都の大工の作にふさわしく、唐様建築の手法に和様をとりいれた優美な様式を残している。


碑文谷の黒仁王

正面三間一戸、八脚、茅葺入母屋造りのこの仁王門は、主として欅と桧を使った簡素な構成で、建築様式も和様に唐様が色濃く取り入れられている。

また、細部の虹梁・蟇股・懸魚」などにも彫刻的装飾が多く、背面左右の両脇間には江戸時代に碑文谷の黒仁王と親しまれた仁王像(都指定文化財)が安置されている。
この仁王像が永禄2年(1559)に作られていることが判明しているので、仁王門も永禄年間に建築されたものと推定される。

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